2013年9月7日土曜日

初音ミクコンサート「マジカルミライ」を体験して感じた存在への境界

8月末、初音ミクのコンサート「マジカルミライ2013」に行ってきた。行ってきたというか、映像演出で参加させて頂きました。具体的にはオープニングや「Sweet Devil」「Last Night, Good Night」「glow」etc...などのモニター演出映像を担当させて頂きました。個人的にも初音ミクは発売当初から、ニコニコ動画でかなり見ていて、特に「Last Night, Good Night」は思い入れが強い楽曲だったので(当時のニコ動の事情も含め)、正直かなり楽しかったです。ライブのほうも本当に素晴らしかったとだけ書いときます。
(本当に良かったんですが、そういうのを文字で伝えるのヘタなので)



初音ミクは以前もブログで書いたことあるので、説明不要の存在だが、初音ミクのライブというものは自分は初体験だったので、そこで感じたこと、疑問に思ったことなどを今回は書いてます。初音ミクファンの方が見ると多少不快な引用などもあるので、ご了承ください。

今回のコンサートは横浜アリーナにて、昼と夜の2公演行われ、夜の部には1万人もの人が参加したらしい。また、同時にニコ生放送が行われたほか、全国の映画館や世界各国でもライブビューイングも開かれ、そちらも併せて相当数の人が参加していたことが窺える。あと子供連れの親子や、女の子もすごい多いなっていうのが印象的だった。もしかしたら初音ミク発売当時は生まれていなかったような小さな子も、初音ミクのコスプレをしていたり、渋谷にいそうなギャルも初音ミクタオルを巻き参加していたのは、ボーカロイドというシーンの広がりを凄く感じたし、もはやバーチャルアイドルというよりもヒーローそのものだ。

ボーカロイドのライブというのは観たことがないという人もいると思うので、当日の様子やどういったライブなのかはこの動画とか見るとなんとなくわかるかと。



そんなこんなで、初体験だった初音ミクライブに感動し、ニコ生のコメントやTwitterでの反応なども見ていたら、いくつかこういうツイートを見つけた。



たしかにボーカロイドに全く興味がない僕の知人も
「人じゃなくて映像なのに、なんでみんなライブ観たいの??」
みたいなことを言っていたし、こういうシーンに興味がない人にはそういう風に感じるのかもしれない。以前、なんかの番組でSMAPの中居正広がこんなことを発言してたのも思い出した。


シーンは確実に広がっているだろうが、こういう風に感じる人たちがいるのも当たり前だし、そういう発言をする人が悪いと言うつもりも個人的には無い。

ただ、今回ふと疑問に思ったのは、そのように感じる人たちがライブに対して、どこまでを存在として認めるのか?ということ。「バーチャルに対して人が集まる」ということに疑問を抱いてるということは、大前提として「人間でなければいけない」という考え方ってことになる。今回のマジカルミライは演奏は生バンドであったし、音楽としての生身さは確実にあったと個人的には感じている。

例えば、同じように映像によるバーチャルライブとしてGorillazを挙げてみよう。Gorillazは架空のアニメキャラクターのバンドで、初音ミクより前からバーチャルライブを行っていたバンドだ。


実際に歌ってるのはblurのDamon AlbarnだからOKになるだろうか?

同じく映像がメインとなるアーティストで元気ロケッツ。ボーカルはLumiという未来からきた架空の少女で、声も何名かの声が合成して作られている。活動は2006年からなので、初音ミクの先輩にあたる。


初音ミクと違い、イラストキャラクターではなく、モデルの人物がいるから初音ミクライブ否定派からすれば問題ないだろうか?

次に挙げたいのはDaftPunk。彼らは生身の人間であるが、Deadmau5のようにライブ途中で被り物を脱ぐことはないし、歌っているわけでもないので、ぶっちゃけ中身が誰であろうとDaftPunkとしての存在を決めているのはあのマスクだ。せっかくなので動画は日本でのライブ。


DaftPunkは中身が人間なので、初音ミクライブ否定派にとってはセーフになるだろうか?

DaftPunkのようなクラブミュージックの人を挙げたので、その流れでDJなどはどうなるだろう?生身の人間であるが、基本的には音楽を再生させ繋げているだけだ。音楽面での生身さは低いと言えないだろうか?
被り物で言えば、日本にもMAN WITH A MISSIONや(あれはオオカミの被り物ではなく肌らしいですが)、BEAT CRUSADERSもいる(厳密には被り物ではないが...)。


さらに言えば、初音ミクのライブがバーチャルだからと否定する人たちは、オケは流すだけ、歌は口パクのみというアイドルが、もし仮に万が一いたとしたら、それに対してどう思うのだろうか?歌も演奏も生ではないが、ステージに立っているアイドルが生身であるからという理由のみで納得するのだろうか。
上記した事例を、全て中居正広に見せて、それぞれ理解できるorできないを理由付きで答えてもらう番組企画などを、ぜひ見てみたいところだ。個人的に凄く興味がある。

と今回のブログも、ここまでかなり煽り気味で書いているが、違和感を抱く彼らとの根本的な食い違いは、たぶん"音楽性"と"アイドル性"のどちらの観点で見てるかだ。ここまで煽った僕の事例は、音楽性としての生身の主張である。中居正広も、他の初音ミクライブ否定派も「ファンは初音ミクというキャラクターを観に行っている」という前提での発言で、たぶん音楽的側面で1万人集まっているという見方をしていないのだと思う。

ではキャラクターという観点のみで言えば、ディズニーランドなどはどうなるだろう?完全な二次元キャラクターに対して、あれだけの人数が毎日集まっているのも理解できないだろうか(まあキャラクターいなくても楽しいってのもありますが)。となると、原因は"バーチャルアイドル"という言葉だけが一人歩きし、性的観点を生み出すことにより、初音ミクに興味がない人からすれば「性的視点をバーチャルで生み出すの?生身の人間じゃなくて?」という思考になっているのだと思う。

そのために比較対象としてAKB48等のアイドルを持ち出す人が多かったり、「握手会はできない」などという発言が出ているのだと思う。要は性的対象が生身のアイドルではなく、キャラクターに移行してることが理解できないということだろう。

たしかに初音ミクの存在がここまで広がったのは、キャラクター的側面が大きいのは確かだ。会場でも、Twitterでも初音ミクの動きや挙動が可愛いかどうかに言及してる人は多かった。それに、キャラクター的な魅力を排除して「初音ミクは楽器だから」という主張のみをするのは、もはやナンセンスな段階にきてるとも思う。5年前ならまだしも、今これだけシーンが広がった要因として見れないのは、現実を避けているだけだ。両面の魅力でシーンが広がったのは確かだ。

実際、ボーカロイドの同人イベントのボーマスに関してこういうツイートがあり、発売当初はキャラクター面やソフトの面白さから、人気を博していたのは確かだ。


実際、当初のオリジナル楽曲は初音ミク自体を題材にした歌詞が多かったし、初音ミクを聴かない人からすれば、今もそのイメージは"みっくみくにしてあげる"や"メルト"の時代から動いていない。初音ミクに興味がない知人もライブを見て「みっくみくとか歌わないんだ?」と言っていたし。(個人的に"メルト"はキャラクター依存のイメージから転換するきっかけとなった曲だと思ってます)

ただ最初に述べた通り、ライブの客層の印象は老若男女問わず本当に幅広かったし、もうその時代を通り越したシーンであることは明白だ。元来のイメージから生まれる性的視点で見たときの違和感だとしたら、非常に勿体無いなと思う。

一点だけ、僕も存在として違和感を覚えるとしたら、アドリブ(対話)だ。現時点の技術でボーカロイドはアドリブがきかない。アドリブのようなカーテンコールも、アンコールもすべて演出となってしまう。そもそもが音楽ソフトとして売り出されているのだから、そんな人工知能的なものを要求するのもどうかと思うが、この点に対して違和感を抱いていると言われれば、納得する点も多い。このへんに関しては、ロボット工学者である石黒浩氏の基調講演記事が面白かったし、参考にすると良いかも。このあたりまで話し始めると長くなるので、今回はやめます。いずれ書きたくなったら。

[CEDEC 2013]人間とは何か? アンドロイド研究から分かった“人間の存在感”とは

とか、色々疑問点など書いていますが、今回のマジカルミライは音楽ライブとして本当に良かった。演奏も、演出も、フロアの空気もみんな。(自分参加してるからだろって言われたらそれまでですが)
こういう感想をテキストにするの苦手なので、気持ちとしてはギターで参加されていたパブロ氏の感想ブログと同じ気持ちです。はい。

初音ミク/マジカルミライ〜マジカルなエクスペリエンスとミクのミライ

こういうこと考えながら、今回のマジカルミライでも最後の曲として演奏した"ODD&ENDS"を聴くとけっこうくるものがあるなと思った。"ODDS&ENDS"の説明を簡単にすると、先述した"メルト"などを生み出したryo(supercell)の楽曲で、今回のブログテーマにもしたボーカロイドにおける音楽性とアイドル性の葛藤を、そのまま歌詞にしたような歌である。この楽曲に関しては柴那典氏のブログ記事がとても素晴らしいので、こちらを読んでみてください。(今回、人の言葉引用しまくりで申し訳)

2012年の「シーンの垣根を壊した5曲」(その3:ryo(supercell)feat.初音ミク“ODDS&ENDS”)



存在という定義を考えると非常に難しくなりがちだが、音楽性とアイドル性の両面が混在する初音ミクを、どちらかの側面のみで捉えて語ろうとするのは意味がないし、なにより本当に勿体無い。ボーカロイドを聴く人、聴かない人、それぞれで初音ミクに抱く幻想は、現時点では食い違いもあるだろうが、これから先それすらも払拭し、世界の色を大きく変えて欲しいと願い、今回のブログは以上。(最後も"ODDS&ENDS"の歌詞引用ですが...)